ありがとうの奇跡

余命宣告をされたわけでもない娘が父の心を知りたくて調べた父の心。

分かって減らしてあげたかったなぁ。怖さも不安も・・・。

怖さ・不安・・・・これさえ私のただの想像で、私が勝手に思っていた感情で、、、、、結局家族といっても、身体も心も別物なんですよね。

分かりたかったなぁ。

分かれば、何かしてあげられることがあるんじゃないか。

・・・・・・なんて、所詮は、余命宣告を実際に自分がされていないから言えることだ。

思えることだ。

結局のところ、分かることなんてできないんだから。

分かったつもりになることはできても。。。。。

分かったつもりになるぐらいなら、分かりません。分かるはずない。

その方がよっぽどいい。

私は健康に生きてきました。

健康に両親が生んで、健康に育ててくれてきました。

親元を離れ、独り暮らしをしても、両親がプレゼントしてくれた健康な身体は健康なまま、

大きな病気をすることなく生きてきました。

余命宣告というのは、ドラマや映画や本の中でのこと、身近に起こることだとは思っても

いないお花畑脳で生きていました。

ある日、突然、唐突に、父が余命宣告をされました。

その時の感情は、言葉にできるものではありませんでした。今もできません。

私が知る限りの言葉を使って表現できる感情ではありませんでした。

余命宣告を家族がされた、その家族側の気持ちは、体験しているので今は多少分かります。

もちろん、人それぞれ違うことは重々承知しているので全て分かるとは思っておりません。

多少なりとも家族が余命宣告をされたことがない人に比べれば・・、比べる必要のないことですが、、、分かるという意味です。

しかし、余命宣告をされた人の感情、というのは決して分かりません。

この先人生のどこかでされるかどうかは神のみぞ知ることだとしても、これまでの人生で余命宣告をされたことのない私は、分かりませんでした。

恐怖・不安・そんな簡単な言葉でしか想像することができません。

大切な、大好きな人がどんな思いをしているのか、分かりたくても知りたくても、実際に

経験したことのない人がいくら想像したところで、絶対に分かることはできない。

何も分からない、何もできない、としても、支えたい、力になりたい、自分にできることは。

できるはずないと分かりつつ、分かるはずもないと分かりつつ、分かりたかった。

常に頭に心に身体にあるだろう恐怖や不安をわずかでも減らしてあげたかったから。

でもだからといって、がん闘病記などの本や記事を読むのはどうしても怖かった。

結末を知りたくなかったから。もちろん、今もご健在で当時のことを振り返り本にしている

ものもあることは知っています。

ですが、どうしても怖かった。怖くてたまらなかった。読めなかった。

余命宣告をされた父の心を知りたいと思いつつ、怖かった。

体験された方の心情を綴っているものを読むことも、父親本人に面とむかって聞くことも。

結局のところ、心の中では、心の正直な部分では、余命宣告をされるということを本当の

部分で知ることが怖かった。

分かりたいと理解したいと思いつつ自分事としてリアルに感じることが怖かったのかもしれません。結局は自分が大事で自分はリアルな怖い思いをしたくなかったのかもしれません。

だから、結局は、余命宣告をされたわけでもない誰かが客観的に記したものを読んで

納得しようとしました。逃げです。真実の怖さから頭を使って逃げようとしました。

いえ、余命宣告をされたわけでもないというのは私がよく知ろうとしなかっただけで本当はされたことがあるのかもしれない。客観的に書かれているように見えるのは、誰しもが

分かりやすいように書いてくれているのかもしれない。

ですが、どこか、心理の教科書に出てくるような、どこか他人事のように書かれているような文章を読んで生々しくない心の動きに安心したのです。

今になり、Twitterやブログなどで実際にご病気の方達の書いているものを読ませていただくことがありますが、やはり

一言で言うと、生々しい。そして、人間らしい。というのが印象です。

その生々しさが、人間らしさが、とても大切に感じられ、愛しく思え、悲しく思え、切なく思います。頑張れという言葉そのものが迷惑で聴きたくない言葉だと分かりつつ頑張れと

思い伝えてしまいたくなります。

どうか、ほんの少しでも、ご本人もご家族も穏やかな時間が過ごせますように、と思います。

さて、話が逸れてしまいましたが、私が父の心を少しでも知りたく読んだ文章です。

批判しているのではありません。救われたというのではないですが、その淡々と書かれている文章に分かるような気にさせてくれた大切な文章ですから。

その言葉とは、次のものです。

たとえば末期がんの場合です。ある日突然、あなたは末期がんです、もう時間がありませんと宣告されたとき、人はどんな反応を見せるか。

キューブラー・ロスというスイス生まれの死の研究者によれば、ふつうその段階は、「否認、怒り、取り引き、抑鬱、そして受容」というステップをとるようです。

そんなはずがないとその宣告を否認し、なぜ私に?と怒り、この仕事だけは仕上げたいなどと時間延長の取り引きをし、心を閉ざし、そしてやがて事態を受け入れるのだそうです

(『死ぬ瞬間』読売新聞社)。

ー宇宙方程式の研究:小林正観の不思議な世界(小林正観、山平松生)より引用

この本の概要

著者:小林正観、山平松生
出版社:風雲舎
出版年月日:2001/6/1
ページ数:210p

もう一度改めて書きますが、決して批判しているわけでも、否定しているわけでもありません。自分事ではなく他人事のように書かれているこの客観的な文章だからこそ、読むことが

できたのです。知ったフリができたのです。少しでも分かった気になれたのです。

今になり冷静に思えば、余命宣告をされた人の気持ちを知る、ことに限らず、誰かの気持ちを感情を100%分かることなど絶対にできることはないのだと分かります。

分かりたい、と思うこと自体、相手がそもそも望んでいないことなのかもしれませんしね。

もちろん、相手がどう思うだろう感じるだろうと想像し、喜ばしい事幸せを感じられることをしてあげたいと想像し、思い、実行することは、とても大切なことだと思います。

そして、結局は人間にはそれしかできないことだとも悲しいことに分かります。

今近くにいる大切な人達にそのようにしてあげ続けたいなと思っています。

ですが、100%相手の感情を分かってあげられることはないでしょうね。

残念ながら、悲しい事ですが。

だから、そう、何が言いたいのか分からなくなってきてしまいましたが、、、、、

分からなくても仕方ない、ということです。

大切な人のことに関してはどんな選択をしたところで後悔は必ずする、と覚悟するのと同じように、相手の感情を100%分かることは必ずできないんだ、ということを覚悟する。

分かりたい気持ちがいくらあっても分からないものは分からない。

分かってあげられない。

だから、分かった気にならない。わずかでも。

分かった気に少しでもなることが、結局は大切にしたい人を無言で傷つけてしまう気がするのです。

その中で自分ができることをする。その中で自分がしてあげたいことをする。

それしかできないから。

自分主体のことしかできないから。自分都合のことしかできないから。

ごめんと思いながらでも、悲しいと思いながらでも、自分自身の恐怖と戦いながらでも、

少しでも自分にとって大切な人の心が身体が穏やかでありますように、喜びを感じられるように、幸せを感じられるように

絶対に愛情は変わらないんだと感じてもらえるように、、、、、、、、

できることを。

-ありがとうの奇跡