ありがとうの奇跡

他人だから奇跡という夢を願えるんだよ

愛する大切な人にこそ、叶わない奇跡を願われるのは心苦しいですか?

他人に奇跡を願われるのは嫌ですか?

それも、分かる気がします。

あくまで、私の今までの人生経験の中での感想です。

私は、幸せなことにこれまで命のかかわるような大病をしたことがありません。

怪我もしたことがありません。

ですから、私が誰かから奇跡を願われたのは、仕事のことかな。

それでも奇跡というほど大袈裟なものではなく、そこまで真剣に願ってくれていたものではないと思います。

そんなその頃の私でも、愛する大切な人に自分では諦めかけていることを、自分で自分の実力を分かっている以上のことを期待されたり、奇跡を願われるのは心苦しかった。

他人に奇跡を願われるのは嫌だった。わずらわしかった。

自分で自分のことは自分なりに分かるから、ほっておいて。

やりたいようにやるから、ほっておいて。

期待されても出来ない時に残念と思われたくないし思わせたくないから、ほっておいて。

そんなように思っていたように覚えています。

もちろん、そんな、仕事のことでのことと、命が関わっていることと、比べられることではありません。分かっています。でも、それぐらいしか、私の人生経験で私の奇跡を私以外の人が願ってくれたことって思い浮かばないわけです。そんな幸せな人生を家族や周囲の方々・ものが送らせてくれているわけです。

余命宣告をされた父に、

余命宣告を受け入れている父に、受け入れるしかない父に、

「奇跡を願おうよ。」

「奇跡が起こるよ。」

「奇跡が起きた人もいるんだし、起こるかもしれないじゃん。頑張ろうよ。」

そんな言葉は言えませんでした。言おうと思いもしませんでした。

ただ、私が勝手に隠れて思うのはいいでしょ、とは思いました。

だって、奇跡が起こってほしかったから。

そして、だって、家族とはいえ、身体も気持ちも違う“父以外の人=他人”だから。

父の本当の気持ちをどんなに分かりたくても、知りたくても、分かることは絶対にできない。

自分が代わりにと思っても自分の身体に病気がそのまま移ることもない。

変えられない事実として、気持ちも身体も病気そのものも、他の人には変わることはできない。たとえ血が繋がっている家族であろうと。この世で1番強い繋がりであろうと。

だから、奇跡を願えるんだよ。

本人は、奇跡を起こしたいと思っても他の色々な感情を直に感じなきゃいけない、考えなくちゃいけない、そんなことしたくなくても、否応なしに自分の身体に起きること、起きていることに頭も心も身体も身体の自由さえも集中させられる。

家族には家族なりの悲しみも苦しみも辛さも怖さも様々な感情・考えが襲ってくるけれども、本人よりは直に病気に攻撃されてるわけじゃない。

他人だから。家族だけど、他人だから。悲しいけれど、他人だから。

だから、奇跡を願っちゃってもいいんだよ。って私は思います。

奇跡を願ってしまうことを、いけないことのように感じる人がいるかもしれない。

奇跡を願ってしまうことを、現実から逃げていると思われる人がいるかもしれない。

人に押し付けるのはどうかと思いますが、勝手に自分の中だけで思うのであれば、願うので

あれば、人にどうこう言われることではないと思います。

余命宣告をされた人じゃない。された人・大事な人の気持ちを分かってあげたくても、

決して、絶対に、100%分かってあげることはできない。

もうそれは、悲しいけれどしかたない。

直に、病気に攻撃されるわけじゃない。遠回りして自分の所にくるだけ。

だからこちらも遠くから、消えてなくなってしまうことを願う。暴れないで大人しくしていてくれることを願う。

奇跡を願う。

どうか、奇跡を願ってしまう自分を、責めることがないように。

※『ありがとうの神様』『願えば、かなう エイブラハムの教え』は、”ありがとうの奇跡””願望実現”を願い、よく読んだ本です。

※『七龍神の開運お作法 ミラクルばかりの幸福な人生に変わる』の本は、持っているだけで幸福になるということで(本に書かれています)、病院に行くときにいつも鞄にしのばせて持ち歩いていた本です。

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