よく、そう、よく、見ます。
〈病気は学び>ですとか、
<病気は自分自身への気づき>ですとか・・・・。
分かります。言いたいことは。頭では。
ですが、心が反発します。抵抗します。気持ちが置いてきぼりになります。
その論調があることは、以前から知っていました。読んだことがあったから、本で。
その時はまったくの他人事で、“いやぁ、実際だったらそんな風に思えるかなあ”って
浅く思ったぐらいでした。
父親が余命宣告をされてから、その論調は”無理“なことではないのか、と怒りにも似たような、そう唱えている人達に抱いてしまいました。
自身にとって大切な人が病気をした時でさえ、その論調を心の底から嘘偽りなく唱えることができるのか。
そういう人達に向かって言葉に出して言うことができるのか?と。
私は余命宣告をされた本人でないから、大病をした本人ではないから、本当のところの実体験をしている方の気持ちは分かりません。
私自身の気持ちしか分かりません。
ですが、私は、“病気は学び”“病気から学べることはある”“病気は余命宣告をされた父自身が父自身へ何か気づきを与えるためのものである”だなんて、思えませんでした。
いや、正確に言えば、〈思おう〉とすることはしました。
〈思おう〉と意識して考えてはできました。
病気に何かしらの学び・気づき・意味付けを。
例えば、こんな風に。
・家族の大切さを改めて気づいた
・これまでの人生の生き方で、人の愛より、自分の体裁・見栄・承認欲を大事にしてきてしまったことの人間としての生き方の駄目な部分を気づいた
・自分の身体・心を大切に扱ってこなかったことを気づいた
・・・・・・そう、こんな風に。
何か学べることがあるなら、何か理由を探すのなら、何か意味付けをするなら。
だって、そうでもしなきゃ、ただただ、辛いから。悲しいから。苦しいから。
不安だから。心配だから。怖いから。
何か意味付けを無理にでも探さなければ、納得できないから。受け入れられないから。
ただ、神さまに怒って、恨むことしかなくなるから。
そんな気持ちでなければ、私は、〈病気は学び〉と、思えないんです。
羨ましかった。羨ましいと今でも思う。
〈病気は学び〉論調を唱える人が。動画で、本で、それらを見るたび、読むたび、
そんな風に思いたいと羨ましかった。今でも羨ましい。
皮肉もこもっちゃうんだけど、そんな風に生きられたら、楽なんだろうなぁって。
自分が病気になっても、大切でたまらない人が病気になっても、そんな風に思えるなら、
心の底から誰かが病気になることを、自分が病気になってしまうことを笑うことができるんだろうなぁって。嬉しく思うことができるんだろうなぁって。成長できるチャンス到来―!って思えるんだろうなぁって。
私は、私自身が、そして大切な人が学べなくてもいい。だめ人間のままでいい。成長できなくてもいい。
今の、これまでの、そのままで、これ以上ないくらい大切で愛してるんだからって思う。
これ以上成長しなくても、学んでないと神様に言われたとしてもだめ人間とレッテルを貼られていたとしても、今のあなたを、私をこんなに愛せるんですよ。愛しているんですよって。
そんなに何かを学ばなきゃいけないですかって。
そんなに心のだか人間レベルとしてだか魂レベルとしてだかまだ人間としてのレベルが未熟だからか分からないけど、成長するって大事ですか?って。
痛いおもいをしてほしくない。怖いおもいをしてほしくない。
苦しさも、辛さも、心配も、不安も、恐怖も感じてほしくないんだよ。
人間ごときの、しかもレベル低いだろう私でさえ、大切な人にそういう思いをさせたくない、大切にしたいっていう愛があるのに、神さまは愛がないの?
愛って私が感じてるのは愛としては中途半端なの?
自分も感じたくないんだよ。
痛いおもいをしたくないし、怖いおもいをしたくないし、苦しさも、辛さも、不安も、
恐怖も感じたくないんだよ。
大切な誰かにそういう自分の姿を見せて心配させたくないんだよ。不安にさせたくないんだよ。怖い思いをさせたくないんだよ。
ごめんなさい。心からの叫びを叫べなかったので、ここで叫ばせてもらいました。。。。
本当にね、本当に、ただただ羨ましいだけなんです。
“病気は学び”なんだよって、言える人が。
私のようにそう思わなきゃやってられないから、無理やり理由付けを考えて、何かを学ぶことなんだと言い聞かせなきゃ受け止められない私と違って、そのまま受け取れる人が。
そんな私が、最近、読んだ本で、同じような論調が書かれてはいるんですが、
この人だけはちょっと他の唱えている人とは違うな。違うことを書いてくれてるな。
好きだなと思えた本がありますのでご紹介します。
それは、こちらの本です。
この本の概要
著者:斎藤一人
出版社:マキノ出版
出版年月日:2020/10/15
ページ数:133p
好きだな、斎藤一人さん。
押しつけがましくなくて、思考がもう何歩も先にいっちゃってる凄い人だけど、一般人を
置いてきぼりにしないところとか。
斎藤さんはこんな風に書いてくれてあるんですよね。
失敗や病気って、あなたの学びのために起きていることなの。
決して悪いことじゃない。
そこで何か気づくべきことがあるから、あなたの身に起きているんです。
すべては、愛を大きくするために起きることだよ。
ー斎藤一人 神的 まぁいいか(斎藤一人)より引用
ここはね、他の人たちと同じです。同じような論調を書いている人たちの本にも、だいたい
ほぼ同じ内容のことが書いてあります。
で、私はこういう文を読むたびに、上記のような気持ちを抱くわけです。
ただ、斎藤さんは、こうも書いてくれてあるんです。
いくら自分にそう言い聞かせても、怖れが消えないことがあると思います。
そういうときはどうしたらいいんですかって、「怖れがあってもいいんだ」と思えばいいよ。
その怖れがあるから学ぶことがあるからね。
怖れがあるのは、あなたには今、怖れが必要だからなんです。
ー斎藤一人 神的 まぁいいか(斎藤一人)より引用
“病気は学び”論を唱えている人、書いてある本には、私が聞いたり読んだりする中では、
上の引用文のようなことだけで終わる人ばかりなんですよね。
だから、心も頭も気持ちもついていけない、置いてけぼりになっちゃうことがある。
だけど、斎藤さんは、“怖れ”って書いてくれてある。“怖れ”ることは当たり前のように。
そして、当たり前のことなんだから、“怖れがあってもいいんだ”、そう思っていいんだよって書いてくれてある。
他の人とは似ているようで似ていないんですよね、書いてくれてあることが。
読者がこれ読んだら、こういうことを聞いたらどんな思いをするかな?どう感じるかな?そう思うかもしれないけど、こんな風に考えてみたらいいんだよって、そこまで読者のことを考えてくれているような文が多くて、好きなんですよねぇ、斎藤一人さん(#^.^#)
“病気は学び”・・・大切な人や自身が辛い病気の時に、もしこういう論を読んでも納得できない、受け入れられない、心がもやもやしちゃうって時のほんの少しの癒しになればいいと
思います。