以前、ブログにも書いてしまったのですが、どうしても受け入れられない“論”があります。
それは、【病気は学び論】。
➡まだまだ思うことができない“病気は学び論”。そんな私に少しの救いをくれた本
そんな私が、唯一、もし父が、私の大切な人が、誰かにとっての大切な人が、病気になる理由があるのであれば、こういうことなのかもしれない。
そんな風に腑に落ちた考え方があります。
それは、本の中にありました。
もし私たちの周りに病気や障害を持っている人がいたら、それこそその人が身代わりになって、それを浴びてくださっているということです。いま親の介護をしている人がいるかもしれません。痴呆状態になっている親を抱えている人がいるかもしれません。そういう親を介護する立場の人は「疲れた、疲れた」と言うかもしれないけれど、じつは逆かもしれません。この親が、自分のところに降ってくる災いを本人の代わりに肩代わりしてくださっているのかもしれません。
ー淡々と生きる(小林正観)より引用
この本の概要「淡々と生きる」
著者:小林正観
出版社:風雲舎
出版年月日:2012/1/26
ページ数:224p
上記の文章が、本当かウソか、正しいか間違いか、それはもう人間には本当のところ決して分かることではないでしょう。
死んでも分からないことかもしれない、神様でさえ分からないかもしれない、そもそも神さえいないのかもしれない。
私が思ったのはそんなことではなく、もし上記の文章のようなことであれば、大切な人の病気になった理由を受け止められる、と思ったのです。
父は、大切な人は、自分自身にその意識はなかったとしても、無意識に、私や家族の身代わりになってくれていたのかもしれない。
そして、そういう無意識にでもそういう優しさ・強さ・愛情の深さ大きさがあることを私は知っているから父ならありえる、と思いました。
【病気は学び論】という言葉自体はありません。
私が勝手に命名した“論”“考え方”=“病気をする意味の捉え方、とでも言いましょうか。
よく本を読んだり、テレビを見たり動画を見たりしていると、よく見聞きする論があります。
「病気をしたおかげで、〇〇の大切さを心から知ることができました。」
「あの病気をした頃があったから、〇〇を学ぶことができました。」
うん・・・・はい。
そういうことは確かにあるのだと思います。否定は決してできません。する気もありません。
といっても、実体験的に分かるというより、あるんだろうなぁという曖昧な感じです。
何故なら、私は今まで、とても幸せなことに大きな病気をしたことがありません。
両親が健康に私を生んでくれて、育ててくれたおかげで大人になっても健康で、大きなけがもしたことがありません。
ですから病気というものはどこか遠くにあるもので、家族にとっても遠くにあるもので、
どこか他人事のことのように感じていました。
ドラマや映画で見て、病気をしてもこんなに強く生きて凄いな。でもドラマだもんな。って冷めた目でみていたり。
24時間テレビを見ても、どこか他人事で、凄いな、強いな、えらいな、とその時だけ思うだけで、1日も過ぎれば日々の仕事のことに思いは変わっていっていました。
そんな他人事で能天気に生きていた私に、父が余命宣告をされたことは衝撃でした。
そして、余命宣告をされてから父と家族がその病と共に生きている間、【病気は学び論】が、
今までと違いとても身近に迫るものになりました。
【病気は学び】。。。。病気と共に生きていた間も、父が亡くなった今も、やはり私はこの論・考え方・思考は、どうしても受け入れることができません。
結果として、結論として、学んだことを無理やりにでも絞り出さないと悲しくて辛くてしょうがないから、学んだことは~って言うだけで、考えるだけで。
好き好んで何かを学びたいから進んで病気にならないでしょーが、と思うんです。
受け入れられたら、心が今よりずっとずっと軽くなって、楽になって、寂しさも悲しさも辛さも今よりずっとずっと小さくなって、もしかしたらなくなりさえするのかもしれない。
受け入れたいなぁ、受け入れられるものなら。
正直な心を言えば、病気は誰も悪くない。誰にも病気になる悪い行動なんてない、考え方なんてない。誰にも病気になる原因も理由もない。あるはずない。
唯一、もしあるのであれば、神様がたまたま病気の玉でも上から投げたものが当たっちゃっただけ、だなんて本気で思っています。
つまり、神様を悪者にしたいのです。人間は何も悪くないと。
そんな私ですから、この本のこの文章を読んだ時には、なんとも言えない表せない気持ちになりました。
もし、世の中の病気に、病気になる理由に理由があるのであれば、誰かが誰かの身代わりになってくれているのかもしれない、と思うようになりました。
病気、というのは、もう神様は必ずなければいけないものとして作ってしまった。
あとは誰がその病気になるのか。それは神様は決められない。じゃあ誰がなるのか?誰かが誰かを守るため。
そんな風になっているのではないか、本人に自覚があるないに関わらず。
もしかしたら、私に降りかかっていたかもしれない病気に父がなってくれたのではないか・・・そんなことを思いました。
もちろん、どの考え方も正解なんてないと思います、人が病気になる理由も、生きてる理由も。私がそうなのかもしれない、と思うだけです。
いえ、正直なところ、そうでも思わないと本当に神様を心から恨んでしまいそうなのですよね。。。。。恨みたくないのです、幸せをたくさんもらっているから。
そうでも思わないと大切な人を奪われる悲しみ辛さ寂しさに耐えられないかもしれないから。
(生活の怠惰が病気になる理由だよ!という方もいるかもしれません。
ですが、生活が怠惰な人が全て病気になっているわけではありません。
だから、私は、病気は誰も悪くないと思っているんです。考え方の違う方は不快にさせてしまいすみません。)
絶対に無理なことなのかもしれないけれど、病気がこの世界からなくなってくれたら、と思います。