ありがとうの奇跡

父親が余命宣告をされて1番初めにしたこと

2021年6月。父が余命宣告をされた。

それまで感じたことのない感情。

どの言葉を使って表現したらいいのか、表現できるのか、私には分かりません。

その状況で、娘である私が、1番初めにしたこととは?

「ありがとう」

この言葉をひたすら言った。

別の言い方で言うと、“奇跡が起こることに縋った”

笑う方もいるかもしれませんね。いえ、いるでしょうね。

父親が、自分にとって大切でたまらない存在の人が余命宣告をされた時にしたことが、

「ありがとう」をひたすら言う。

一見意味の分からない、宗教じみているような、気が狂ったかと思われるような行動を、

娘である私がしたのだから。

しかも、父親が余命宣告をされて1番初めに。

今ネットで改めて〈父親 余命宣告>と調べてみると、名義変更・葬儀社・自動車・・・・

などとするべきこととしてこのような単語が出てきます。

どこにも「ありがとう」をひたすら言うなんて書かれていません。

あの時の私にはそれしかできなかった。奇跡を起こすことに縋りたかった。願った。

私がその状況の時、目にしたかった情報は、上記のような事務的なまるで死後のことをちゃんと今から考え準備しましょうという情報ではなかった。

余命宣告をされてから何年も生きた方の実例、余命宣告よりも長く生きるための良い方法

希望の見える言葉、・・でした。

死ぬことを前提とした名義変更や銀行の手続き方法なんて知りたくもなかった。

葬儀社のことなんて調べたくもなかった。

結果として、奇跡を起こすことはできたのか?奇跡は起きたのか?

起こすことができた、とも、起こすことができなかった、とも思っています。

そして、今、結局気づかされることは、父の為に奇跡を起こしたい、というよりも、

自分自身のため。自分のみの不安や心配、恐怖、表現できない感情をどうにか落ち着かせる、少なくする、失くすためにしていたこと、だと

自覚しております。

どんな選択・考え・行動をしたとしても、愛する家族のことです、”後悔は必ずする”と私は思います。

たとえどうせするのであれば後悔を少なく、と思っていても、多いか少ないかなんて自分で判断できないと思います。

後悔はする。必ず。

ただ、少しでも、ほんの少しでも、多すぎる様々な情報に余計な時間を過ごしてしまわないように、一つの例として私の実体験を記録しております。

・そもそも何故「ありがとう」をひたすら言うことが、奇跡が起きることに縋る・願うことに

なるのか?

・どのようにそれを実践したのか?

・1年間それをし続けた結果、奇跡を起こすことはできたのか?

この文章では実際に体験したことを綴っております。

そもそも、何故ありがとうを言うと奇跡が起こせるかもと思ったのか?

小林正観さんの『ありがとうの神様』という本を読んだから。

その本の中に、”病気”に関して、ありがとうによる奇跡が起きた2人の人の実例が書いてあった。

一人は、病気の方本人がありがとうを言うことで病気(ガン細胞)が全身からすべて消えていたという人がいたと書いてあった。

もう一人は、病気の方がありがとうという言葉を他人に言ってもらうことでガン細胞が消えたという人がいたと書いてあった。

(※すべての人にこういう奇跡が起きるとは書かれていません)

りんく→本の紹介

単純な理由です。

その人たちと同じことをすれば、奇跡が起きるんじゃないか?奇跡を起こせるんじゃないか?と思いました。

その人たちのような奇跡を起こしたくて。奇跡が起きて欲しくて。奇跡を願って、縋って。

ただ、私は父親に、じゃあ「ありがとう」を自分で言って、とは言えませんでした。

余命宣告をされ本人しか分からない不安や心配や恐怖を感じてる時、それでも今から必死に病気や治療を頑張ろうとしている父に対して

「ありがとう」を言うことも頑張ってして、とは言えなかった。

だから、私が実践したのは、私が「ありがとう」を言うことで私に奇跡が起こる=父親の病気が治る、ということを願い実践しました。

また、私が言う「ありがとう」の波動が父に伝わりそれによって病気が治るという奇跡を願い実践しました。

その他にも「ありがとう」を言うことでの奇跡が書いているような本や動画、ネットの記事を探しては見ていました。→参考で他の本、動画、ネット記事紹介

じゃあ、同じような奇跡を起こすためにどのような方法で実践をしたのか?方法は

下記の3点を毎日した。

  • 朝起きたらベッドに横たわっている状態のまま「ありがとう」を100回言う。
  • 「ありがとう」散歩をする(1日1時間程度)ありがとうの回数は1000回ほど。(この時にはまだ父と一緒に暮らしていません。都会で一人暮らししてました)
  • 夜眠りに落ちるまでベッドに横たわりながら「ありがとう」を言う

上記にプラスして、起きている間はなるべく「ありがとう」を言った。

お風呂、髪を乾かす時、料理をしている時、動画を見ている時、とにかく意識して食事をしている時以外いつでも。

1日どれぐらいの回数を言っていたか?

→平均して5000回ほど言っていました。

書ける時は正の字を書いて数字を把握するようにしていましたが、していない時もあるのでもっと言っていたと思います。

叱られてしまいそうですが、仕事中も言える時はマスクの中で小声で誰にも聞こえないような声で「ありがとう」を言っていました。

必死に言っていても口が疲れてしまう時があります。呂律が回らなくなる時も。

そんな時は紙に「ありがとう」と書いていました。

→正の字の画像挿入

今になって改めて見てみると・・・・怖いですよね。

でもその時には必死でした。そしてその必死を、余命宣告をされてから引っ越しして一緒に暮らせるようになるまでの2か月ほどは毎日していました。

仕事の出勤日数を減らしてもらい、実家で一緒に暮らせるようになってからは、父親に聞こえないような小声で「ありがとう」を

毎日毎日言っていました。一日平均3000回は言っていたと思います。

(この時期はコロナでの感染対策のため、家の中でもマスク、シールドを私一人しておりました。まだ仕事をしてたので都会で一人暮らししていたので。)

※この記事では1番初めにしたこと、という枠で書いてますので、1年を通しての詳細は

別記事にして記録してあります。良かったらご覧ください。

(←でリンク貼る)

その結果はどうたったのか?奇跡は本当に起きたのか?

奇跡は起きました。とも言えます。

奇跡は起きなかった。とも言えます。

そもそも、奇跡、云々ではなく、「ありがとう」を言ったから、とか全く関係なく、

父親が必死に、一生懸命に、家族の為に自分の為に頑張ってくれたから、とも言えます。

あるいは、もともと生まれる前からそう決まっていた宿命だとか天命だとか運命だとか

、とも思います。

病気が治りました!癌が消えました!

このようなその奇跡は起きませんでした。

それでも、私は1年間、奇跡を何度も感じていました。

あぁ、奇跡だなぁ。嬉しいなぁ。感謝だなぁ。ごめんね。ありがとうね。幸せだよって。

どんな時に、どんなことを、奇跡と感じたのか?

詳細は別記事に記録してありますので良かったら見てみてください。

→リンク貼る

人によっては、こんなの当たり前のことでしょ。わざわざ書くことじゃないでしょ。

こんな思いをする方もいるでしょう。私自身、父親が余命宣告をされる前はこんなように思っていましたから。。。

当たり前に日常を過ごして、当たり前に未来があって・・。

この1年、私にとっては、奇跡の連続でした。毎日が、奇跡でした。

心から、父にも、神様がいるのであれば神様にも、小林正観さんにも、感謝しております。

まとめ

正直なところ、すぐやらなきゃいけない作業的なことはない。

必須のことは、病院を決める。治療法を決める。この2つ。

そして最善の治療が受けられるようにお金の準備をすること、お金の心配をなくすこと。

ネットには “名義変更” “葬儀社探し” “自動車関係”・・・そんなすでに死後のことを連想させることばかりが

家族が余命宣告をされた時やるべきこととして書かれていた。

私は馬鹿みたいに1番初めに「ありがとう」を言うことで奇跡を起こそうとした。

馬鹿みたい、自分でも思います。

実際、父親が余命宣告をされたことを話した知人数人からは、“銀行のお金が~””菩提寺は~”とか

作業的なことの大変さ、手続きを心配などされました。アドバイスしてくれました。

その方達はその方達で私を、家族を支えてくれようとしていたことを知っています。

ですが私には、医師の言葉そのまま受け入れられる強さが私にはなく、準備するべきものを準備しておこうという計画性も欠如しておりました。

でもすぐに“名義変更”や“葬儀社”を探すことに時間を使わないで良かったと心から思っています。

余命宣告の期間が数か月と言われていたからというのもあります。

・「ありがとう」を言うことで奇跡を起こそうとした

・物理的に傍にいれる時間を作るために、仕事を辞め引っ越しをした

私は、この2つを最重要事項と考え実践しました。

父が亡くなり今改めて死後の手続きなどを終え、思います。

あぁ、あの選択をして良かったと。

大事な時間を死後で十分間に合うことに使わなくて良かったと思っています。

たった一人だけ、友人でこんなことを言ってくれた方がいます。

「その時はその時で大変だよ。手続きはたくさんある。だけど、その時は助けるから、

今大事なことを大事にしな。今大事なのは、ただ一緒にいること。傍にいることだと思うよ。

父のためにも、自分のためにも。」

その方は、数年前に大切な夫を亡くされています。

周りの人も、ネットの情報も、本も、作業的なことばかりすることの重要性を語る中で、

その方の言葉はとても心にしみました。

確かに“名義変更”や“葬儀社”・・など作業的なことは必ず必要・しなければいけないことで、

重要なことは分かります。

いずれ、必ずしなければならないことです。したくなくても。

実際、私自身、1番初めに「ありがとう」を言うことで奇跡を起こす、

そして、物理的に傍に入れる時間を自分自身で作るために仕事を辞め、引っ越しをし一緒に暮らせるようにする、という行動を

しましたが、それ以降は周囲の声やネット情報が気になり、名義変更だとか銀行凍結だとか

そんなことをネットで調べてその手続きの分からなさに不安になることもありました。

それを調べる時間、それを調べるネットを見ている視覚を、脳を、父親に向けていれば良かったと後悔しています。

じゃあなんで調べたのか、それは生前調べておかないといけないもの=必須のことだと勘違いをしていたから

でも、今、はっきり分かる。生前でなくていいものがたくさんある。

周りの情報、ネットの情報を鵜呑みにして、名義変更や銀行手続きなんか色々調べていたことがあった。

亡くなった後で十分間に合うものがたくさんあった。それから大変であったとしても苦労すればいいだけのことだった。

そんなことしている時間や頭、目や耳があるなら、愛しい人にその時間や感覚を向けていればよかった。

だから、私のような不安や心配、後悔をするようなことはもったいないですよ。と思い、本当に生前すると良いこと。後からでもいいことを書いてます。

ただ、これは私の場合です。他の人に当てはまるのかは分かりませんのでその点はご了承ください。

無責任で申し訳ありませんが、それでも私にとっては無駄でもったいない時間の過ごし方をしてほしくない気持ちは本当の気持ちです。

ネットに溢れる情報や知人の情報を鵜呑みにし、気が狂うんじゃないかという苦しく辛く怖い精神状態の中、

ネットで調べたくもないことを調べている時にある方がこんなことを言ってくれた。

「その時はその時で大変だよ。手続きはたくさんある。だけど、その時は助けるから、

今大事なことを大事にしな。今大事なのは、ただ一緒にいること。傍にいることだと思うよ。

父のためにも、自分のためにも。」

それ以来、考え方を変えた。調べることをやめた。

その時間を一緒にいる時間、奇跡を起こす実践に使った。

じゃあ、何も作業的なことを調べなかったのか?と思うかもしれませんが、私の場合は、

医師から「いつそうなってもおかしくない」という宣告をされ、それから調べました。

調べたことは2つのみ。葬儀社さんのこと、そしてお寺のこと。

(私の家の場合は、お寺さんもすぐに対応してくださいました。)

葬儀社に事情を説明して、お寺に話をしに行って、、、、2日で済みました。

たった2日で済むことを父が余命宣告をされ貴重な時間の時に使わなくて良かったです。

たくさんの、本当にたくさんの幸せを残してくれた父に、心から感謝しています。

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