奇跡を願うこと。
できますか?
奇跡を願う。
これって、余裕がないとできないことだと今は思います。
あの当時、余命宣告をされた当時、それでも、奇跡を願えたのは、「ありがとう」という言葉を唱えることで奇跡が起きてくれと願えたのは。
余裕が、それでもあったから。
数か月、という余裕。
私自身ではない、という余裕。
ひどいと思われそうですが、奇跡を願えたこと、奇跡を起こすための行動をできたこと、それは余裕があったからできたことだと思います。
余裕・・・余裕なんかなかったよ。これが本心ですけど、心から思うことだけど。
でも、結局は、親子と言えども、娘と言えども、私は私で、父は父だから。
体が違うから。
私は余命宣告をされたことがないから。
だから、奇跡を願える人がいるとすれば、ひどいけれど、余裕がある、その人を大切に思っている他人しかいないと思います。
その人を大切に思っていない人は、一瞬こそ、体調が悪い、大病だという話を聞いたときに心配することはしたとしても、
常に、ずっと、心から奇跡を願い続ける事はしない。
大変だね。可哀そうに。自分の家族でなくてよかった。
言葉にしなくても、気持ちをハッキリと自覚していなくても、そんなところが本当だと思います。(違う人がいたらすみません。私はそうです)
毎日の仕事をしていれば一生懸命常にする人かどうかは別として仕事のことを考えるだろうし、自分の家庭のことを考えるだろうし。
だから、奇跡を願える人がいるとすれば、願い続けられる人がいるとすれば、ひどいけれど、余裕がある、その人を大切に思っている他人(体が違う家族とか恋人とか)しかいない。
もしかしたら、人からは
「奇跡?いや、難しいでしょ。医者が言っているんだから。」
「奇跡とか・・・。可哀そうに、やっぱり平常ではいられないよねぇ。」
「奇跡?馬鹿なこと言ってるなよ。宗教みたいなこと言ってないで現実を考えなよ。」
・・・などなど、言われたり、心の中で思われたりするかもしれません。
私自身、そういう人達の一人でした。父が余命宣告をされる日までは。
誰かが大病をした。可哀そうだと思った。でも15分後20分後には仕事のことを考えていた。自分の家族は健康でいてねと思っていた。
テレビなどで家族の病気のために誰が見ても怪しいと思うような水を買う人を見て心で軽蔑し、馬鹿だと思っていた。
奇跡、という言葉を本気で使う人が、なんだか努力をしない怠けものや狡い人に見えて胡散臭くて嫌いだった。
そんな私が、奇跡を願いました。
奇跡は起きる、奇跡はこの世に確実にあるものだ、と心の底から信じれていたのか、と言われれば、信じたかったんです、という答えです。
それでも、奇跡を願うことをしました。
正確な心の動きを表すなら、奇跡を願うことを当たり前のように自然にそう思った。
奇跡を願うことが馬鹿なことだとも、胡散臭いことだとも、恥ずべき行為だとも考える前に、奇跡が起きてくれないかと願っていました。
今、奇跡を願っている人、いますか?
奇跡を願ってしまっている自分を、恥ずかしいと思っている人いますか?
現実的に思えない自分を、非難している人いますか?
私以外の人がどう思うのかは知りませんが、私は、
誰かの病気が治りますようにと願う人を、当たり前、だと思います。
そして、どうか、その願いの一つ一つが、一つでも多く、多く、叶いますように。
※ただ、一つ、私が決してしなかったこと。
それは、私が奇跡を願っていることを、父本人に言わなかったこと。
病気である人が、その病気は治らないと医師に言われている人が、病気が治るという奇跡を願っているんだ、と言われてどう感じるか?
もし私だったら・・・ともはや想像しかできないのですが、私だったら「イヤ」だから。
その奇跡を願ってくれている人が大切な人であればあるほど。
その期待に応えてくれるか分からない体を持っていて、その期待に応えようとする心を保ち続けられるか分からないから。
悲しませたくないから。
ね。所詮は、私は他人なんです。悲しいことに、いくら親子でも、他人なんですよ、体が違うんですから。
だから、奇跡を願えるんです。自分だったらイヤだろうなということを、他人だから、願えるんです。願ったんです。